2018年1月31日水曜日

9 神様、仏様、安男様


安男は無神論者であった。

 今年3月に満60歳の定年退職をして、悠々自適の年金生活に入った。三歳年下の妻、哲子もいたって健康で、長男夫婦に二人の孫、娘夫婦に一人の孫、計三人の孫に恵まれて順風満帆の生活を送っていた。

安男は根っからの無神論者で神も仏もその存在を信じていなかった。神社に行ってもお寺に行っても手を合わせることも願い事を唱えることもなく、ただぼうっとその場に立って眺めているだけであった。

 ただ、その場に居るだけで心も体も自然に落ち着くことは確かであった。
そんなある日突然安男は便秘の症状で苦しみ始めた。

 「ばかな、今までにウンコが出ないことなんてあったか」
生まれてこの方、便秘などまったく経験がなく考えたこともなかった。
 無神論者の安男は、便座に座るたびにウンコが出ないことがどれほど苦しいことかを思い知るのであった。

 この苦しさに耐えかねて、ある日安男は便座に座って自然に手を合わせた。
 「神様、仏様お願いします。どうかウンコを素直に体の外に出してください」
 便座に座って今の今まで不安でかちかちに硬直していた体から、スーッと力が抜けていき嘘のように安心の境地に達した。
 「どうしたことだ。これはどうしたことだ」

 安男は、また手を合わせて、今度は前よりももっと心を込めて、前よりも少しはっきりとした声で
「神様、仏様、お願いします。ウンコを体の外に出してください」
 すると力の抜けた体のお腹の腸の辺りがぐるぐると動くのを感じた。

 安男は涙を流しながら
 「神様、仏様ありがとうございます。ありがとうございます」
 なんということだ。久しく感じたことのない腸の動きが活発になり、心地よい太さと硬さのウンコが静に体外に排出されていくのを実感した。
 なんと清清しい気分だ。それからは便座に座るたびに合掌して「神様、仏様、どうかウンコを素直に体の外に出してください。お願いします」と唱えるようになった。

 それ以来、安男はウンコの神様仏様を信じるようになったが、だからといって、信心深い信者になったとは思っていなかった。あいかわらず自分は無神論者だと思っていた。

 ただただ、ウンコの神様仏様に手を合わせると便秘が解消することだけは実感として確信できた。
 便座に座って手を合わせ、呪文を唱えている姿は外から見れば異様に映るだろう。しかし、本人にとってはいたってまじめで真剣そのものである。もっとも、便座に座って呪文を唱えている光景など外から客観的に見ることはまずなかろうが。

 安男はまわりに便秘の人がいると自分の体験を話したくて、話したくてついつい自分の経験した一部始終を話してしまうのであった。

 しかし、この話を聞いた便秘の人は笑って誰も安男の話を信じようとしないばかりか、ばかばかしい話として一笑に付した。
 それでもあまりにも便秘がひどく、クスリの効果もなくなるとついばかばかしいと一笑に付したあのことを試してみると不思議なことに多くの人が便秘を解消して清清しい一日をおくることができるようになるのであった。

 そのうちに誰言うともなく、「神様、仏様、安男様」と、安男の名前が付け加えられて唱えられるようになった。うわさはうわさを呼んで、安男の名前は有名になっていった。

 ただ一人、妻の哲子だけはこのことを信じていなかった。
 「ばかな」とつぶやくのである。

 しかし、その妻の哲子にも今までに経験したことのない強烈な便秘に襲われたのである。論理的で冷静な哲子は、先ず、掛かりつけの病院に行って主治医の鈴木医師の診断を受け、食生活と運動を見直すことにした。鈴木先生の食生活も運動も現在の生活で十分であることが分かり、取りあえず便秘の薬を処方してもらった。

 食生活では、今までよりも少しだけヨーグルトの量を増やし、努めて植物繊維を取るように心がけた。病院に行った日の午後と夕食後のクスリが効いて次の日は以前と同じように便秘は解消し、快調な生活に戻った。

 哲子は、生活習慣とクスリが便秘を解消することを確信した。

 安男の所には、年金生活者の60代の男女が多く相談に来ていた。その度に妻の哲子はお茶を入れ相談者の話し相手をするのであった。
 「私もつい最近便秘になりかかってね。鈴木医院でクスリを貰ってすぐに解決しました」
 「そうですか。私も初めのうちはクスリで便秘は解消していたのですが、3年目頃からクスリが効かなくなりましてね。クスリを変えたり、食事を見直したり、運動を取り入れたりしましたが65歳を過ぎてから、便秘が益々ひどくなりましてね」

 そんな話をしながら、便秘仲間がだんだんと増えていき、小集団ができて人間関係の輪が広がりそれなりに楽しい情報交換ができるようになった。
 安男は便秘仲間では信頼も厚く、神様、仏様、安男様という位置を確かなものにしていた。

 安男は、哲子の経験から先ずは医者を紹介して、食生活や運動、それにどうしてもというときはクスリをと手順を踏んで情報を提供していた。

 65歳を過ぎるころから、人の体は変化して今まで効いていたクスリも効かなくなる時があることを発見した。
 クスリをおおく飲むと下痢状の便が続きやめると便秘と言う人が結構多くいた。そんな時に安男は自分の経験を話すのであった。自分には効果があったが人それぞれですから、効果のほどは分かりません。

 安男からその話を聞いた人はみんな、安男と同じことをやってみるのであった。ただ一つだけ違うことは、「安男様」と言う言葉が付け加えられるのである
「神様、仏様、安男様、お願いします。どうかウンコを素直に体の外に出してください」と手を合わせるのであった。

安男の家はサロン便秘と言う雰囲気で毎日を多くの同病者が集まってウンコの話で大賑わいであった。妻の哲子もこの雰囲気と人間関係は心が休まり好きであった。参加者がそれぞれにお茶やコーヒーやお茶菓子を持参するのでいつも応接間の隅に置いてある棚の中は飲み物と茶菓子で一杯であった。たまに哲子が手作りのケーキを焼いてコーヒーを入れるのであった。

便秘の話はだんだんと広がり、県外からも安男の家を訪れる人が増えた。平穏無事にウンコの話であっという間に10年の月日が過ぎて、安男は古希を迎え、妻の哲子も67歳を迎えた。

変化と言えば、近頃大便の後にいつしか「色よし、型よし、太さよし」と言うようになっていた。安男は快便、快腸の日々を送っていた。

今日もいつもと同じようにトイレをすませ、新聞に目を通して、来客に備えて部屋の片づけをしようと応接間の横のトイレに差し掛かったとき、トイレの中からブツブツと何かを称えるような声が聞こえた。妻の哲子の声であった。少しだけ聞き取れた内容は「・・・安男様、お願いします。」しばらくたって「こんなバカなことが、不思議だ」

安男はトイレの前を通り過ぎて応接間のソフハーに腰を下ろして肩の力を抜いて一息いれた。その時、哲子が応接間のドアを開けた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、さわやかなすっきりとした顔で中に入ってきた。

「今日も忙しくなりますね」と、哲子はいそいそと応接間の掃除を始めた哲子の手作りのケーキとお茶でウンコの話が盛り上がることであろう。

「色よし、型よし、太さよし」と安男は腹の中で繰り返し快便、快腸の笑みを湛えて哲子を迎えた。


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