2017年10月8日日曜日

3 たった一人の女客

 ボラ、チヌ、イサキ、ハマチ、アジなどが釣れはじめると、この僻南の寒村も釣り人たちでにぎわい始める。特に土曜日の午後は泊まり込みの客で満員である。

それを当て込んでか、この地に、ちょっとデラックスな金持ちの退屈しのぎの片棒をかつぐような海辺のホテルが建った。
 透き通る紺碧の海原に続く、餅膚の砂浜、濃い縁の松林、その中にピンク色の屋根をのぞかせて海辺のホテル桃源郷が、こじんまりとすわっている。
 従業員も少なく、支配人が一人、女中が二人で、その都度、村の女をアルバイトに雇って経営している。支配人といっても、電話の番、風呂の掃除、帳簿の整理まで、一人何役も受け持っており、女中もご飯炊き、中洗いと女の仕事を一手に引き受けている。

 それで、土曜日のように、二、三十人もの宿泊客があると、海の女が、三、四人応援に来ることになる。健康で別に取り立てて愛想を振りまくでもない海の女は、釣客たちにはなかなかの評判であった。

 きょうの土曜日は、台風情報の影響か、釣客はなく、ホテル桃源郷の従業員が、戸締まりやら、なにやらと台風に備えて忙しく動いていた。
 佐多岬より東に進路を取れば台風の直撃を受けるし、西に向かえば大丈夫、夜中の満潮時にぶつかれば大変なことになるぞと村は緊張していた。

 今夜の予約客は全部だめだろう。浜風が強くなり、松林越しに見える砂浜に波頭のうねりが押し寄せていた。波頭の響きに交差して、乗用車の音が支配人の耳に入った。

 「だれだろう。こんな日に、もの好きな人もいるものだ」
 支配人は腰をあげると、スリッパをそろえ、外灯をつけた。しばらくして、玄関わきの広場に車が止まり、四十年配の男が高級な釣具を肩に入ってきて、支配人に告げた。
 「若紫のお部屋です。こんな空模様になったものですから、もう、お見えにならないかと思っていました。お一人でございますか」
 男は黙って、支配人の後ろについて歩いた。男を部屋に案内すると、支配人は風呂の準備に取りかかった。

 客足がつくと何人かあるもので、タクシーが女の客を送り届けた。男の釣客に混じって、家族連れや、小グループの女の客はたまにあったが、たった一人で桃源郷に来た女の客は初めてであった。

 支配人は女の客を、夕顔の間に案内した。続いて、もう一人の四十年配の男の客を浮舟の間に、結局、今日の泊まり客は、若紫の男と夕顔の女と浮舟の男の三人となった。

 若紫の男は、風呂上がりにビールを、夕顔の女は食後のフルーツを、浮舟の男は清酒をあけた。支配人は頭をかしげた。男の釣客は理解できても、夕顔の女についてはどうも納得することができなかった。別に用事があるふうではなし、無理をしてこんな天候状態の日に来る必要はなかろう。

 美しいという表現では、どうもぴったりとこないが、見るからにすばらしい女である。俗に、ふるいつきたいようなという表現があるが、本当にそうせずにはいられないような衝動を起こさせる清潔な女である。

 三十歳前後、純白のレースにパールの首かざり、ショートカットのヘア、引き締まった崩れをしらない肉体がかすかにまるみを想像させる。人をそらさない瞳、やわらかな豊かな音声、一体夕顔の女はなにものであるか。

 風が松林をゆさぶり、怒涛が、台風の接近を知らせる。満潮に近づくに従って、海辺のホテル桃源郷は不安と緊張を高めていく。
 三人の泊まり客は、静かに部屋に閉じこもったきり出てこなかった。若紫の男も浮舟の男も四十年配、普通の釣客とは少し様子が違う。贅沢な釣具と言い、車の趣味と言い、洋服の着こなしと言い、社会的にもかなりの身分のように思われた。
 あらしの前の三人の泊まり客は、まったくの偶然であろうか、偶然にしては神様もいきな取り計らいをするものである。
 それとも、夕顔と若紫あるいは浮舟とのどちらかと、ある線で結ばれているのであろうか。まさか、三角関係。それとも、まったく関係がないのであろうか。

 支配人はあらしの前の緊張に興奮し、なかなか寝付かれなかった。それでも、午前三時を時計が回って、錯綜した頭の疲れでとろりとした。
 あまりの静けさに支配人が目を覚ましたときは、まさに夜が明けんと、ほの暗い空気が動きはじめたときであった。 台風はそれた。

 夕顔の女は、あらしの去った青い波頭に向かって深呼吸をした。純白のレースがぬれた濃い緑にひときわ映えてすがすがしい。

  若紫の男も浮舟の男も釣に出かけ、夕顔の女は一人車の人となった。

  満足気なほほえみを残して。


     自 撰 一 句

          世間の毒浴びて艶めく彼岸花   掌

        

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